前回に引き続き
グスタフ・クリムト
(独: Gustav Klimt, 1862年7月14日 – 1918年2月6日)
についてです。
前回は、クリムトが絵画を学ぶきっかけと
アカデミックなお仕事での成功。
最愛の弟と父を亡くしたところまででした。
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1、弟を亡くした後の仕事
2、ウィーン分離派結成
3、ジャポニズムの影響
4、ユディット
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1、弟を亡くした後の仕事
ウィーンが、公共施設の建築ラッシュの中
マッチュと弟と順調に壁画などのお仕事を
していましたが、
弟が亡くなった頃から、
クリムト放題が始まりました。
これは、今までは弟たちの生活を考えて
アカデミックな仕事をしていたと思われます。
1894年、ウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、
『哲学』『医学』『法学』の各学問の象徴となる
3点を制作することになりました。
この作品が大きな批判を呼びます。
この頃から、クリムトは、アカデミックな作風から脱却し、
自らのクリムトのアーティスト性を出した
作品への変化が、見られるようになります。
今まで、こんなに美しい絵を描いていた
クリムトが
イメージの壁画の依頼に対して、
クリムトの作品は遠近法的な空間表現を無視して
平面的に構成するなど、
伝統にはそぐわない物であった。
クリムトの個人的な自由のファンタジーである。
![](https://oretrose.com/wp-content/uploads/IMG_8243-1024x768.jpg)
![](https://oretrose.com/wp-content/uploads/IMG_8244-1024x768.jpg)
政府の公的な注文だったにもかかわらず、
多大な物議を呼び批判にさらされた。
これに嫌気を刺したクリムトは、
この3点の絵をパトロンらの手に渡してしまった。
紆余曲折あって、最後は国立オーストラリア美術館の所蔵になったが、
ナチス軍との戦争により消失してしまった。それゆえ、現在は白黒の資料しか残っていない。
それをきっかけに、
もっと自分の思うような作品を描きたい。
ドイツは、この頃の印象派・ポスト印象派だった
フランスやイギリスに比べて
遅れている!という、クリムトの思い。
これは、ビジネスとして活動したいマッチュとの
意見の相違となって2人はお別れすることになりました。
2、ウィーン分離派結成
1897年に
アカデミックな壁画や装飾を手がけてきたクリムト
はそこから分離する
「ウィーン分離派」を結成します。
この分離派はオーストリアに新たなアートを
作ろうという オーストリアのアールヌーボーです。
![](https://oretrose.com/wp-content/uploads/3048342_m-1024x683.jpg)
ここからが、クリムトの個性の爆発です。
クリムトの目指す
芸術の工芸の融合である。
父の仕事の影響を受けたのであろう。
黄金期の始まりだった。
この絶頂期の作品には、「ジャポニズム」の影響が見て取れます。
これは、
実際、クリムトは日本美術のコレクションを持っていましたし、
日本の影響が指摘されています。
その作品は、遠近法が使われていなかったり
「金びょうぶ」との類似性を見ることができます。
1873年、11歳の時、ウィーン万博が開かれ、
明治政府も初めて正式参加したことで、
日本画を知った、多くの芸術家が影響されたのです。
そこで、クリムトに影響を与えた
ジャポニズムについて
もっと詳しく調べてみました。
3、ジャポニズムの影響