4月先取りで、

今回はグスタフ・クリムト
(独: Gustav Klimt, 1862年7月14日 – 1918年2月6日)

絵画に興味がなくても
「クリムト」
は、ご存知でしょうと思いますが
以外にも、特に男性は知らない方がいらっしゃいます。

その一方で、妖艶な女性の絵画が多いことから
男性ファンは沢山いらっしゃいます。

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惜しげもなく使われる

ゴールドに華やかな絵画

クリムトの描く妖艶な美しい女性

多くの人を虜にしています

壁画の作品も多く

近年ではポスターや広告

雑貨にまで使われている

彼の絵

ゴールドの所以と

女性をターゲットに

見ていきましょう

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1、クリムトの実家と絵画を学ぶきっかけ
・生家
・入学
金銀細工師とは

2、絵が上手
・挿絵の依頼
・芸術家カンパニー設立
・大きなショック

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1、クリムトの実家と絵画を学ぶきっかけ

・生家

1862年、ウィーン校外のボヘミア出身の金銀細工師の家に生まれました。

7人兄弟の2番目です。

貧しい家庭だったようです。

・入学

父が絵の才能に気づきいて
クリムトが、14歳の時に
美術工芸学校に入学させました。
(今まで勉強してきた、ほとんどの画家は
このパターンです。当時、教会や公共の施設で
活躍していた、画家たちは花形だったのかもしれません。)

また、弟は父の仕事を継ぐために、
同じ学校に入り彫刻を学んでいました。

この頃の、画家達は他にも

金銀細工師の家に
生まれた人もいました。

なんとな金銀細工師という言葉を
お伝えしていましたので、
そのお仕事の内容を調べてみました。

金銀細工師とは

・・・・・・・・・

1862年ごろのウイーンでは、
金銀細工師(ゴールドスミスとシルバースミス)の仕事は
非常に尊重され、高度な技術と芸術性を要求される職業でした。
この時代のウイーンは、オーストリア帝国の首都であり、
文化、芸術、音楽、そしてもちろん工芸の中心地でした。
金銀細工師たちは、貴族や富裕層の間で
需要が高い精巧なジュエリーや食器、
装飾品を制作していました。

 

仕事内容と技術

金銀細工師は、金や銀などの貴金属を加工し、
装飾的かつ実用的なアイテムを制作します。
これには、食器、カトラリー、宝石類、教会の祭具、
そして個人的な装飾品などが含まれます。
彼らは鍛造、鋳造、彫刻、エングレービング(彫刻)、
ロウ付け、研磨などの技術を駆使して、
精密な作品を創り出しました。

 

芸術性とデザイン

1860年代のウイーンの金銀細工は、細部にわたる装飾と、
当時の社会的・文化的な動向を反映したデザインが特徴です。
この時期、ロココ様式の影響がまだ見られる一方で、
次第にネオクラシシズムや
後期バロック様式の要素も取り入れられていました。
金銀細工師たちは、時代の流れを読みながら、独自の芸術作品を創り上げ
ていたのです。

こちらは1862年ごろのウィーンで一般的な精巧で細かな工芸を反映した画像です。この画像は19世紀半ばのウィーンの職人技の優雅さと洗練さを示しており、装飾的な家具、繊細な金属加工、または複雑なテキスタイルパターンなど、その時代の芸術的および文化的な豊かさを体現する詳細が特徴です。

教育と修行

金銀細工師になるためには、
厳格な修行と学習が必要でした。
多くの場合、若い年齢で見習いとしてトレーニングを始め、
数年にわたる実践的な指導の下で技術を習得していきます。
この期間には、基本的な金属加工技術から始まり、
徐々に複雑な装飾技法へとスキルを拡張していきました。
優れた金銀細工師になるためには、
長年の経験と実践、そして継続的な学習が不可欠でした。

社会的地位

金銀細工師は、その技術と創作物によって高い評価を受け、
社会的にも尊敬される職業でした。
彼らが制作するアイテムは、
しばしば特別な機会や贈り物として用いられ、
その所有者の地位や富を象徴するものでした。
特に優れた作品は、
家族間で代々受け継がれる価値ある遺産となり得ました。

1862年ごろのウイーンの金銀細工師たちは、ただの職人ではなく、
その時代の文化と芸術を形作る重要な役割を担っていました。
彼らの手によって生み出された作品は、
今日に至るまで多くの人々に愛され、
高く評価されています。

・・・・・・・・
と、いうことでした。

だから、

金銀細工師の家に生まれた人が
天才的な画家になるのも持って生まれた
才能であり、芸術家である父の目に狂いがないというわけですね。

2、絵が上手
・挿絵の依頼

クリムトの絵は
大きく分けて3つの時期があります。

その中で初期の絵はアカデミックです。

初期、は学校に在籍は14歳から21歳ですが
19歳の時には挿絵の仕事などをしていました。

その中にはイソップ物語
こんな絵が描かれていました。
私達のイメージのクリムトとは
全く違いますね。

「ライオンとネズミのお話」
ライオンが罠にかかった時に
ネズミが罠をかじって
助けてくれたという話なんですって。

クリムトの絵の中で
動物が描かれたのは
非常に珍しいとのこと。

・芸術家カンパニー設立

学校を卒業すると、
友人のマッチュと弟と一緒に
3人で芸術家カンパニーを設立しました。

その頃、どんどん
新しい公共施設が建っていった時代。
絵の上手な3人には、
壁画のお仕事が、途切れずに入ってきました。

ウイーン万博に初めて、日本が参加した
時期でもあります。

その、カンパニーが成した
仕事について、調べてみました。

 

グスタフ・クリムトと彼の弟エルンスト・クリムト、そして彼らの友人フランツ・マッチュが共同で設立した
「クンストラー・コンパニー(Künstler-Compagnie)」
についてお話しします。
クンストラー・コンパニーは、
19世紀末にウィーンで活動した芸術家のグループで、
主に建築やインテリアデザインのプロジェクトに取り組んでいました。

グスタフ・クリムトは主に絵画で有名ですが、
彼とそのグループは、ウィーンの建築や
インテリアの装飾プロジェクトにおいても重要な役割を果たしました。
彼らは、ウィーン分離派の思想にも影響を受けており、
芸術のあらゆる側面を一つの統合された作品として捉えることを目指していました。この思想は、
ゲザムトクンストヴェルク(総合芸術作品)と呼ばれ、芸術家たちは建築、家具、装飾品、そして絵画を含む、生活のすべてを芸術作品として設計しようとしました。

クンストラー・コンパニーは、
特に高級な住宅、公共ビル、教会の装飾で多くの仕事を行いました。
彼らのプロジェクトには、ウィーンにあるブルク劇場の天井画や、
その他にも多くの豪華なビルの内装デザインが含まれています。彼らの作品は、ウィーンの建築と美術におけるアール・ヌーヴォー様式の発展に寄与しました。

エルンスト・クリムトとフランツ・マッチュもまた、
このグループにおいて重要な役割を果たしましたが、
グスタフ・クリムトが最も広く認知されているメンバーであることは間違いありません。
エルンストの早すぎる死後、
グループはその活動の勢いを失いましたが、彼らの仕事は今日でもウィーンの文化的景観において重要な部分を占めています。

残念ながら、グスタフ・クリムトが実際に「クリムトの弟」と共同で芸術アカデミーを設立したという記録はありません。彼らが設立したのは、むしろ装飾的なプロジェクトを手掛けるアーティストグループであり、その活動は上述した通りです。このグループは、ウィーンの芸術シーンにおいて革新的な動きを作り出し、後のアール・ヌーヴォー運動に大きな影響を与えました。

現存する、公共施設でも
実際に彼なの仕事を見ることができます。


・大きなショック

上のアカデミーの仕事の説明にあるように、

1892年同士でもあった弟が死去
また、同じ年に父も亡くし、
クリムトは、相当なショックを受けました。

この時から、可愛がっていた弟の
家族の面倒を見るようになりました。

ところが、このショックから
あの、独創的なグスタフ・クリムトが
ムクムクと出て来たのです。

この続きはまた次回に!

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